株式会社クッポグラフィー ウェディングフォト・ファミリーフォトの撮影

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写真は瞬間を切り取るためだけのもの?私たちが考える「写真」の役割とは

写真に、背中を押してもらったり、あたたかい気持ちなったりしたことはありませんか?


一瞬を閉じ込めただけなのに、その日の感情や背景を思い出させてくれる。知らなかった自分に出会うことがある。


なぜなら写真は瞬間を切り取るためだけのものではないからです。


クッポグラフィーのフォトグラファーが考える、「写真の役割」をいくつかの事例とともにご紹介させていただきますね。


写真は、気持ちの後押しをするもの。

クッポグラフィーで撮影した写真をきっかけに、とある決意をした方がいました。

生後100日記念でとってもかわいい赤ちゃんを連れた、ご主人が単身赴任中のご家族の撮影をした時のお話です。

初めは順調に撮影を進めていましたが、途中で赤ちゃんのお腹が減ったり、抱っこしてほしかったりと、なんだかご機嫌ななめになる時間がありました。

パパとママと「これで笑うかな」とか「この抱っこが好きなんだよね」と試行錯誤。

赤ちゃんが笑うとみんなで笑い、泣くとみんなであーでもない、こーでもないと対策を考える。みんなで赤ちゃんをみつめながら撮影する時間が愛しくて、私は胸がいっぱいになりました。

楽しく撮影を終えた後には、写真のスライドショーを上映。ママは写真と赤ちゃんをなんども交互に見て、赤ちゃんのことを撫でながら涙を流していました。


パパはママの奥で、帽子をかぶっていたので見えにくかったけれど泣いているように見えました。何度も赤ちゃんの足を撫でていたのが印象に残っています。


ママは妊娠中、3~4ヶ月入院したり、36週で出産したりと、不安な日々を過ごしたそうです。さらに、パパが単身赴任中。


いろんな心配ごとを抱えながら、撮影を迎えてくれていたのです。


ママは撮影後に、「やっぱり家族は一緒にいないといけないんだって今日の写真を見て思いました。赴任先に一緒に行くことをずっと悩んでたけど、今決めました。」と泣き顔が残るまま、伝えてくれました。


誰かと過ごす時間を可視化でき、未来を見つめることができる。それも写真の役割の一つだと思います。


家族で過ごしている時の自分の表情、仕草、空気。


実際に見ることができるのは、誰かに撮ってもらった写真です。家族で過ごすと、こんな優しい顔してるんだなあ。

こんな風に、私は赤ちゃんのことを見つめてるんだなあと。


必死に過ごす毎日の中では、きっと振り返れないような愛しい時間を閉じ込めているのだと思います。


写真は、声やぬくもりという記憶を永遠に伝え続けるもの。

私は、写真にはその瞬間に捉えたぬくもりも感情も匂いも、見返すたびに触れることができる力があると思います。

先日、友人のワンちゃんが亡くなりました。ファーという名前のフレンチブルドッグ。14歳でした。

毎年家族写真を依頼してくださっていたので、訃報を聞いたときには本当に驚きました。勝手にいつまでも一緒にいてくれるものだと思ってしまうんですよね。そんなはずがないのに。

友人は「とっても辛いけど、撮ってくれた写真がたくさんあるから。」

「毎年撮ってもらっていて、本当によかった。ありがとう。」と伝えてくれました。

残された側はいつだって辛い。もっとこうしてあげられたかな、と考えることが多いと思います。

けれども、写真にはその当時の記憶やぬくもり、きっと声だって閉じ込められています。

みんなで過ごした大切な時間があるから、きちんと目に見える状態で残すことができたから。辛いけど、受け止めていくことができるんじゃないかと思います。

そしてお子さんはまだ3歳。愛犬ファーと過ごした1〜3歳までの記憶は、大人になったらもうなくなっているかもしれない。

けれど、一緒に撮った写真がたくさんある。思い出を蘇らせる準備は整っています。


写真は、子どもの頃の記憶も蘇るもの。

実家には、兄と私のふたりで並んで笑っている写真が長い間飾られていました。

たぶん5歳と3歳くらいのときの、ふたりで肩を寄せて楽しそうに笑っている父が撮影した写真です。

私はお気に入りのサリーちゃんの妹の髪型をしていて、父か母かに「木に手をついて」と言われたものの、木がゴツゴツしていて少し痛くて嫌だったことを覚えています。

当時、3歳の私がおぼろげにでもその記憶を呼び起こせるのは、その写真がずっと飾られていたからだと思います。


これがなければ、公園にいったこと、サリーちゃんの妹の髪型が私にとってお気に入りだったこと、父親に写真を撮ってもらったこと・・・きっと、どれも思い出せなかったでしょう。


家族で祖母の家にいったときに撮影した写真も、強く記憶に残っています。


初日の出を見に行った先に、わざわざ父は三脚をもって、写真を撮りました。

その時の写真もリビングのテレビの上に飾られていたんです。


当時の私は家族で写真なんて撮りたくもなく、とても寒いこともあり、不機嫌そうな顔。それはきっと、押入れにしまい込んでしまっていたら思い出せないことだったと思います。


常にみんなの目に触れるところに飾るということで、ふとしたときに絵として思い出し、さらにその記憶に呼び起こすことができる。そんな役割も写真にはあるのです。


写真は、今まで知らなかった自分や家族に出会うことができるもの。

撮影したご家族から「こんな顔して笑ってるんだ」と気づくことができました、と言っていただくことが多くあります。

パパママが子どもたちを見るまなざしや、なんの迷いもなくダッシュでパパママに飛び込んでいく姿。

少しだけ跳ね上がる髪の癖や、その髪をなで付ける大きな手、抱きしめた時の重みや匂い、笑い声や泣き顔も。

そういう何気ない喜び、愛といった言葉にはできないけれどいつもそこにある感情を可視化できるもの。それが写真だと思います。

きっとその時は、愛だなんて思わないかもしれないけれど、そういう小さいことの積み重ねが愛で、家族だと私は思います。

毎日仕事や家事・育児に追われながら、日々を一生懸命すごしていると気付かないことは本当にたくさんあります。

鏡を見ただけでは自分が家族と過ごしている顔はわからないし、自分たちが過ごしている空間を少し離れて見ることはほとんどできません。

泣いてしまった子どもを抱っこするときの、ちょっと呆れながらも愛しいと思う表情や子どもたちの全力泣き顔も。「こんな表情できるようになったんだ」と写真によって、気づくことができるのです。


私たちが届ける写真は、当事者の家族だからではなく、第三者であるからこそ撮れる家族写真だと思います。

今だけしかない、尊くて、儚くて、愛しい時間。

そんな一瞬一瞬を逃したくないとシャッターを繰り返し押して、この宝物のような時間を閉じ込めておきたい。

そんな写真が、力になったり、背中を押してくれたり、慰めてくれたり。
誰かにとっての、お守りのような役割になることを願っています。